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竹田恒和の息子は竹田恒泰!家系図を遡ると天皇と繋がりあり!自身は明治天皇の孫【画像】

竹田恒和

パーク24で話題となっている竹田恒和さん。その竹田恒和さんの息子はあの竹田恒泰さんという事が判明!竹田恒泰さんは天皇の家系ということもあり、一時期話題となった事があります。

ということは、竹田恒和さん自身も天皇の家系となっています。

そこで、今回は竹田恒和さんの家系図をわかりやすく、かつ画像が判明している部分は載せながらみていこうと思います!

竹田恒和の家系図と顔画像一覧

竹田恒和さんの家系図のを遡って行くと明治天皇の血が流れている事がわかりますね。

北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう)の息子・竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう)に常宮昌子内親王(つねひさおうひ まさこないしんのう)が降嫁(こうか)して、竹田宮恒徳王(たけだのみや つねよしおう)が生まれています。

竹田宮恒徳王と奥さん(恒徳王妃光子)の間に生まれたのが竹田恒和さんとなっています。

そして、その竹田恒和さんと奥さん(昌子)の間に生まれたのが竹田恒泰さんとなっています。

この家系図の登場人物をもう少し深く見てみましょう!

竹田宮恒徳王恒徳王妃光子(竹田光子)

恒徳王妃光子の名前にカギカッコで竹田光子と書いていますが、これには理由があります。竹田宮恒徳王と恒徳王妃光子は1947年に皇族離脱といって、天皇の地位をやめて一般市民になっているのです。

2022年の例でいうと、眞子さまがわかり易いですね。眞子さんが離婚したら苗字は何になる?一般人で姓が無くなる可能性

(眞子さんの場合は、小室圭さんが一般市民。恒徳王妃光子と竹田宮恒徳王は、両方とも皇族というパターン。)

皇族離脱後の竹田宮恒徳王は、学習院出身で元々馬術でオリンピックを目指していた事がよかったのか、皇族離脱後も特に生活の心配はなかったようです。

本来であれば、皇族離脱後は公職をやめて新しい仕事先を決める必要があります。しかし、そこは元皇族。

1950年に日本スケート連盟の会長就任を要請され、あれよあれよという間にスポーツ界での役職がつき始めます。

代表的なところでいうと、日本オリンピック委員会委員長です。→森喜朗の逮捕歴にある買春疑惑とは?収賄罪で本格的に取り調べされて初めて逮捕される可能性

こんな感じで、スポーツ界の発展に従事しています。やはり元皇族ということもあり、国内外でも重宝される人材だったということが伺えます。

恒徳王妃光子は、特にこれといった活動もなく献身的に夫である竹田宮恒徳王を支えていたようです。

常宮昌子内親王竹田宮恒久王

家系図を見るとわかりますが、竹田恒和さんや恒泰さんの名前の源になっているのが、この竹田宮恒久王

竹田宮恒久王は、1906年に竹田宮の称号を賜ります。ここから竹田という名前が恒和、恒泰さんと代々受け継がれる形となります。

この竹田が名付けられたのは、京都にある竹田街道から名前をとって命名されています。

竹田街道の京橋の画像ですが、とても京都の雰囲気というか和を感じますね。

そして、竹田宮恒久王の略歴ですが、陸軍士官学校を卒業しているということもあり、近衛騎兵連隊に属していたという事があります。

近衛騎兵連隊とは、騎兵が連なった隊のことです。騎馬隊とでもいいましょうか。

騎兵は馬に乗っていて機動力があります。連絡や偵察などをすることに優れています。竹田宮恒久王は、この近衛騎兵連隊の一員となって日露戦争に従軍していました。

しかし、1919年の第一次大戦中。スペイン風邪が流行り亡くなってしまいます。スペイン風邪とは現在でも類を見ないくらいのインフルエンザです。

当時の規模でいうとおよそ世界の1億人は亡くなったのではないかと言われるくらいの大きなインフルエンザでした。

日本国内の死者数は日本本土で45万人(人口の0.8%)にも登る規模となっています。竹田宮恒久王もこの0.8%の一人となり、帰らぬ人となりました。享年37歳。

そして、常宮昌子内親王。

園祥子という明治天皇の側室として扱われた方の娘。明治天皇の子供としては6番目の皇女として誕生。

竹田宮恒久王が若くして亡くなって以降は、その後継である竹田宮恒徳王を支えていました。また、慈悲深い性格もあり、満州事変で傷ついた兵の方達を見舞うということもしていたようです。

そういった慈悲深い性格がキッカケなのか、東京慈恵会の総裁になり、現在の東京慈恵会の礎を築いた人物でもあったりします。

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